今日の美人さん|日本とマレーシアのハーフ・JUNAさんの幼少期から現在までの人生の歩み

今日の美人さん|JUNAさん
本日の美人さんは日本とマレーシアのハーフ・JUNA(ジュナ)さん。その経歴を拝見すると、元JAL国際線グランドスタッフ、元某企業受付嬢、元国立大学教授秘書、元某一流ホテルコンシェルジュと書いてあり、どのような人生を歩まれてきたのかをぜひとも伺いたく、早速、JUNAさんにコンタクト。

そこで、以下の手記を快く寄せていただきました。


こんにちは。ご連絡ありがとうございます。
とても長くなりますが、幼少時代からの私です。

私は父がマレーシア人で母が日本人のハーフです。
生まれは長崎、7歳まではマレーシアと日本を行き来していましたが、小学2年生(8歳)から中学1年生(13歳)までマレーシアの首都クアラルンプールで生活をしていました。

父が日本人ではないため、日本人学校に入学することができず(当時)
現地の日本人誰一人いない公立小学校に転校しました。
マレーシアは1月から新しい学期が始まるので、日本では小学校2年生でも、マレーシアでは3年生でした。

当然言葉や文化、宗教の知識はゼロでした。
なので、3年生でしたが、1年生に繰り下がり1ヶ月間そこで学び、2ヶ月目は2年生、そして3ヶ月目は本来の学年に戻り、皆と一緒に勉強しました。その頃はすでに言葉はペラペラになっていました。

自然と私の周りには男女問わずいつもお友達がいてくれて、言葉を教えてくれたり、遊んでくれたり……
遊びながらマレー語と英語を覚えていき、1ヶ月で話せるようになりました。

宗教に関しては、父がM教なので、その教えを学ぶために宗教学校に通い、ゼロからのスタートでした。
◯◯を読むためにアラビア文字を学び、分厚い◯◯を三回繰り返して読み終われば卒業という、あまりピンとこないかもしれませんが、3年生から始まり6年生で卒業することができました。

日本から持参した小学1~2年生の教科書は6年生になった頃には全く読めず、簡単なひらがな、カタカナ、漢字すら書けませんでした。

帰国子女として日本に戻って来たのは
マレーシアでは中学1年生、日本では6年生の頃でした。

またまた苦労の始まりで、ひらがなからのスタートでした。中学生の頃は努力期間でした。
しかし、自分を信じて、人一倍努力したので高校生の頃はクラスで6番以下を取ったことがなく、学級委員を務めたり、毎年英語のスピーチコンテストに出て、高校3年生の時は長崎県で見事優勝し、全国大会では5位という学校内で歴史に残すことができました。何よりも全校生徒の前で壇上にあがり、スピーチ出来たことがさらに自信に繋がりました。

卒業後は短期大学へ通い、アルバイトを掛け持ちしながら、自動車学校に通い、あっという間の2年間でした。

幼い頃からCAになるのが夢だったので、
タイミングよく卒業前にCAではありませんが、JALのグランドスタッフの募集があり、
書類選考から始まり、筆記試験、グループ面接、個人面接を経て、合格しました。
短大卒業後は初めての一人暮らしが福岡で始まり念願のJAL国際線グランドスタッフの一員として働いていました。

入社して1ヶ月後にはありがたいことに、マレーシア航空の事務職とシンガポール航空のCAの推薦状を頂きました。

でも、とても迷いました。
なぜなら、入社間もないため、JALでの勉強をまだしたいと言う気持ちもあり、自力で頑張って勝ち抜いた結果、入社出来たわけでもあり、だけど、念願のCAにもなれるかも!……というしばらく複雑な気持ちで過ごしていました。これまでにないぐらいとても葛藤しました。

そして、悩みに悩んだ末、お断りしました。

数年が経ち、新たなステップアップのため、外資系の航空会社に転職し、順調に進んでいけると思った矢先、他社エアライン合併に伴う経費削減の為、人生初のリストラに遭いました。
リストラに遭った時は、すでに結婚していたので、タイミングよく子供を授かり、2年後には2人目を授かることが出来、しばらくは専業主婦をしていました。

仕事人間の私は航空会社で働いていたというプライドを捨てきれず、他社エアラインの募集がある度、応募し面接までたどり着けるのですが、やはり子供が小さいと病気の時はどうするの?とか、シフト勤務だし早朝勤務がある日は病気時は面倒見てくれる人はいるの?とかばかりで……。
自分の実力より、そっちの方が重要なんだと初めて知りました。

社会に取り残された感があまりに強かったので、人生初の派遣会社に登録しました。

すると、あの有名なお弁当屋本社のP社さんの受付を立ち上げて欲しいという案件を派遣会社より依頼され、携わることが出来ました。

電話一つしかなかった入口。
ロビー奥には(旧M丼)のオフィス。

セキュリティを強化したいという要望もあったため、オフィスごと別階に移動してもらい、各階にある(6階建て)会議室や応接室をロビー奥に作れば良いんじゃないかとひらめき、稟議書を作成したところ、OKサインを頂けたので早速実行することに。

食品を扱う会社だけに、食品を持ってくるお客様も多く、受付の際に地べたに置かれる方がほとんどでした。

食品を足元に置くという私には考えられない光景が発端で、袖机を新たに作ってもらうよう稟議をかけたら、またまたOKサインを頂き、今では全国の事業所にも設置されています。

お客様からではなく、スタッフがお客様を名前でお迎えする等々たくさんのルーツがある受付を立ち上げることができました。

やりがいと達成感からくる新たなスタートでした。
関東に引越して6年経ちましたが、上京する数年前に離婚して、今の夫と再婚しました。

上京前は国立大の教授秘書として働いていました。
今までは接客業がほとんどで秘書としてやっていけるのかすごく不安でしたが、何でも挑戦で、やれば出来るものでした。
軌道にに乗っている矢先の上京でしたので辞めざるを得ない状況でした。

そして、上京して16年振りの航空会社復帰。
年月が経っているのでシステムが変わったのは当然。しかし、根本的なことは変わっていないのと、今までの経歴からくる自信と気持ちの安定感からより良い接客が出来たと思っています。

そんな中、高齢妊娠発覚。
再婚して授かった今の次女。授かるまでは辛い経験をして乗り越えてきた妊娠。
それも15年振りの妊娠。
身体を労り苦渋の決断で退職しました。
出産したのは42歳でした。五体満足
申し分ないぐらいとても健康な女の子赤ちゃん誕生でした。

2年が経ちボチボチ社会復帰したのが
ホテルのコンシェルジュでした。

今までに培って得たかけがえもない経験やホスピタリティーマインドを活かせられる場でもありました。
そんな矢先、コロナが流行り、自宅待機……、退職になりました。

致し方ないご時世ですが踏んだり蹴ったりです。

現在は再び専業主婦をしていますが、
次女はまだ4歳 まだまだ続く育児なので
いつまでもキラキラワクワクしているお母さんでいたいので、
ウェディングドレスを着てモデルをしてみようかなぁ~と応募したところ、撮影から始まり、ランウェイを歩いてみない?と声をかけられ、今年6月に開催されたショーに出ました。

これがきっかけで、現在の花道セレクションというコンテストにエントリーし、今月上旬に開催された予選大会を突破しファイナリストになることができました。

本選大会は12月5日に開催されますが、
グランプリを取るとマレーシアの親善大使になれる可能性もあります。
ここまできたら、私は私らしくありのままの私を出しきります!

波乱万丈な人生を歩んできましたが、
今までのルーツがあるからこそ今の私があります。

自分の未来は自分で切り開き、
苦労した分かけがえのない、お金に変えられない経験を積んだと思っています。
これらの経験を表に出すか出さないかは人それぞれですが、私は出したいです。

こんな母親の背中を見て育ってくれた長女21歳、長男19歳そして次女4歳、自分のレールを見つけ、人の気持ちが分かる人生を歩んで欲しいです。

自分を信じて、やれば出来るという強い信念を貫きたいと思っています。

長文になってしまいました…。

でも、過去の自分と向き合う事が出来ました。こんな機会を与えて下さり感謝しております。ありがとうございます。


JUNAさん、お忙しい中、本当にありがとうございました。言葉や宗教、そして文化の違いを乗り越えて今もアクティブに活動されているJUNAさんに心から敬意を表したいと思います。

そしてJUNAさんの新たなチャレンジの舞台は、花道セレクション’21 とのこと。

初代の綜合グランプリ受賞者である石谷千枝さんを「今日の美人さん」としてご紹介している当編集部としては、ぜひともJUNAさんを応援したく、12月5日に東京・神田で開催される本選大会でのご健闘を心から祈って本日の美人さん紹介でした。

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