専業主婦の新橋峰子さんが52歳でビジネススクールで起業を学ぶまでに至った家族の物語

2022年2月24日にご紹介させていただくのは千葉県浦安市にお住まいの新橋峰子さん52歳。

SNSで拝見した笑顔がとてもチャーミングで、峰子さんのご家族はもちろんのこと、周りの方々も幸せに違いないという直感が働きコンタクトさせていただきました。

「家族優先で何一つ身につけてこなかったことがコンプレックスで華やかな経歴もありません」と、当初は掲載を固辞されておりましたが、主婦業も立派な経歴だという当編集部の考えにご賛同いただきまして手記をお寄せいただきました。

新橋峰子 私の経歴

昭和44年(1969)生まれ 52歳

北海道札幌市で生まれ育ち、地元短大の家政学科を卒業した後、大手ゼネコンへ就職しました。

25歳で社内結婚して退職し、転勤族の暮らしスタート。

北海道伊達市で長男、札幌市で次男出産。

34歳で夫の転勤で東京に行き、社宅暮らしへ。そこで最初のカルチャーショック。

社宅で全国から集まったママ達、話しがとても面白く上手なことに驚く。

彼女達は高学歴の方が多く、いつもいろんなことにアンテナを張っていてポジティブ、子供の教育にも熱心。

それに影響を受け、自分も教育を大事に考えるように。

当時5歳と2歳の息子達の喘息に悩まされながらも、楽しく社宅暮らしを満喫。

38歳で三人目出産。その後千葉県新浦安に自宅購入。

夫は結婚後ずっと忙しく、毎日帰りは深夜。

休みは日曜のみで、当然ながら三人の子育ては私一人のワンオペ。

当時はワンオペなんて言葉もなく、それが主婦の当たり前と思っていました。

雑貨屋さんや歯科医受付などのアルバイトもちょこちょこやりながら、3人の子供との毎日は日々戦争でしたが楽しくやっていました。

ただ長男が小6で中学受験をした時は、末っ子の娘も幼稚園受験で重なり、さらに2番目の子がやんちゃで…。

学校で問題起こしたりと家でもあばれる君で疲弊していましたね。

いつもヒーヒー言ってる私を見て、お友達は笑いながら、峰子さんの日常面白すぎるから、何かに書いておいたらいいよ、なんて言われていました。

でも当時はその余裕が無かったですね。ブログでも書いておけば、今頃立派な子育て日記になっていたなと思います。

無事受験が終わった2月、東日本大震災に見舞われました。

新浦安は液状化がひどく、電気と水が使えない状態が2週間以上続き生活が一変…。

夫はゼネコン勤務のため、仙台の事務所に行きっぱなしとなり、そのまま中国へ駐在となりました。

せっかく入った長男の私立中学のこともありましたが、私自身海外で暮らしてみたかったのと、せっかくのこのチャンスです、子供達にも絶対に海外経験をさせたいと強く思いました。
そして母子4人も半年後に中国・瀋陽市へ。

そこで第二のカルチャーショックが。中国の瀋陽市は、北京や上海などの大都市と違い地方都市です。中国のカラーが色濃く出ていました。

私は、人類は皆兄弟、言葉や文化が違っても人に対する気持ちや道徳観はそう違わない、と信じて楽しみにしていました。

しかし、文化が違うということは、そこのところも全然違っていたのでした。無知でした。
日本人学校などない場所でしたから、子供達は現地の学校と幼稚園です。システムや先生方の対応、日本人の常識では予想もできないことばかりです。

着いた日からお湯が1週間でない、トイレが詰まる、などハプニング続きでしたが、そんなことは楽しめました。大変だったのは子供達のことです。

娘の幼稚園は、連絡帳で担任と毎日やりとりしていました。

しかし、娘が風邪で数日休んだ間に幼稚園の教材の支払いを知らず(知らされるのは大抵前日)払っていなかったら、新学期にテキスト一式が娘だけもらえなくて。

「ママー、私だけ貰えなかったー」と泣きべそでバスを降りてきた娘。問い合わせたら払ってないんだから当たり前でしょとの返答。

未納を知らせてもらえず、なぜ未納かなども対応なしなのでした。

お遊戯会があった時は、楽しんでくださいと連絡帳に記載がありましたので、チケットを購入して楽しみにしておりました。

当日、ビデオ構えて客席で待っていたら娘が出てこない。娘は参加させてもらえなかったのです。

流石に苦情を言ったら、まだ言葉ができないからかわいそうと思った、という返答です。それを知らされず、娘も毎日の練習を楽しんでいて、家でもいつも踊って見せてくれていました。

当日になって娘は出られないことを知り、帰宅後泣いていました。まだ4歳の頃の出来事です。

日本に一時帰国後ら、きちんと連絡しているにも関わらず幼稚園バスは来てくれなくて、園に伝えると、バス担当の先生が私は聞いてない、タクシーで来て、と。

極寒マイナス15度の土地です、待っているだけで死にそうなところへその対応…。

息子達の学校も大変でしたが、まだ大きいので自分で聞けますし、辛いながらも頑張ってくれてましたが、4歳の娘に関しては本当に大変でしたね。

初の海外が中国の地方都市だったのは、今考えると結構キツイと思います笑。

どうしてもの時は、会社の通訳の方にお願いできましたが、そもそもの考え方が違っているので、通訳の方も私の言葉をそのまま訳すことができず、お互い苦労する、という感じです。

中国では自分の担当の仕事以外は絶対しない、何かあっても謝らない、謝るのは賢くない、という考え方です。

性善説の日本人と合うわけがありません(その後、慣れてくるとうまく立ち回れるようになって行きましたが)。

英語も全く通じない土地で、頑張って中国語を習っていましたが、毎日の生活はサバイバルでした。

中1だった長男は反抗期の年頃でしたが、それどころではなく家族一致団結して協力しあって生活しなくてはなりませんでした。

そんな中、反日運動が激化します。瀋陽は旧満州地方ですのであちこちに反日の幕が上がったり、お店で蔑む言葉を投げかけられたり。

タクシー乗ったら、日本人は嫌いなんだ、と降ろされたこともあります。

1年2ヶ月の中国駐在でしたが、一生忘れることのできない貴重な体験をたくさんできました。

もちろん辛い事ばかりではなく、いろいろな中国人の方と仲良くなると、ものすごく親切で優しいと分かります。中国では仲良くなった人にはとても親身に世話好きになるのです。

まだ駐在の夫を残し、私立中学に戻るために帰国します。また社宅で母子4人の生活が始まりました。

年長、小6、中3の子を抱え、お金も必要でアルバイトに出たりしますが当時、夫の母が病床で、片道2時間かけてしょっちゅう見舞いに行ったり、心配だった長男のためにPTAを引き受けたりで忙しく、疲弊してアルバイトは長くは続けられませんでした。

子供達が小1、中1、高1になる時は、卒業式と入学式を一人で回さなければならず、娘の入学式の写真撮影で、スーツの下がなんか違和感、と感じていたらブラを着け忘れてた、なんて珍事もありました。

あの頃は本当にめまぐるしかったです。

そして新浦安の自宅に戻った1年後に夫が帰国して、娘が小2の終わり、フルタイムパートへ。保険会社の事務スタッフとして働き始めます。

事務では伝票起票の時代のOL経験しかなく、エクセルも何も知らず全て一からです。会社の若い女性たちに本当に助けられました。

大変でしたが、中3と高3の息子たちの受験に向けて、塾代もかかるし待った無しでした。
良い方々に恵まれ、思いの外楽しくお仕事できましたが、慣れた頃に今度は夫がシンガポール勤務へ。

シンガポールへ行けるなんて、と飛び上がって喜びましたが準備は大変でした。

まず先に夫が行き、大学生になる長男は日本で一人暮らし、高1の次男は絶対に行かない、と学校近くの学生寮へ。

彼らの準備をしながら、自分と娘の出国準備。また目の回る忙しさとなります。

シンガポールには3年半の駐在生活となりました。

その間、次男が学校でうまくいかなくなり留年の危機となって急遽私だけ帰国し、シンガポールに連れて来て一緒に暮らす、などありました。

また、シンガポールではコロナ禍での苦労もありました。

北海道の私の父が亡くなった時も、一人暮らしの長男が就活に苦戦し精神的に参ってしまった時も帰国が叶わず、悲しい思いをいたしました。

しかしそれを除けば、シンガポールでの暮らしは楽しく刺激的なことばかりでした。中国を経験したせいか、日々の暮らしは本当に快適でした。

コロナが収束しない中、落ち着いたらあれもしよう、これもしよう、そして働こう!と夢見ていましたが叶わず帰国となりました。それが先月のことです。

●私の人生のピンチ

上の経歴でほとんど書きましたがやはり東日本震災、中国駐在生活、離れて暮らす息子の対応ですね。

特に息子(次男)の件は悩みました。

シンガポール駐在中、高1で親と離れて暮らし、色々な事があり相当一人で苦しんだだろう事、そしてそれを親に言えずにいた事(自分で行かないと決めた手前)。

やはり母としても今後どうしてあげたら彼が元気になるだろうか、と悩み、苦しかったです。
(その後シンガポールに呼び寄せることとし、1年間シンガポールのインター校に通い、すっかり元気になりました。現在は無事大学生となり、運動部で元気に過ごしています)

また、コロナで一時帰国が叶わない中、一人暮らしの長男が就活でつまづき落ち込んだ時も、ご飯を作りに帰ってあげたかったけれど帰国が叶わず悲しかったですね。

震災や中国も大変だったけど、終わりが来ると分かっていたので、子供の事ほどではなかったですね。逆に貴重な経験だったな、と言えます。

●これからの夢や目標

今はビジネススクールに入り、女性の起業について学んでいます。まずは発信の勉強で、Instagramを中心に頑張っているところです

妻として三人の母として家族のサポートを自分の役目として長く過ごしてきましたが、これからは自分の事にたくさん時間を使いたい。

いろんなことを学びたいし、働いて稼ぎたい。

自分の好きな事で生き生きと歳をとりたい。

と強く思います。

そしてそれが現実化して、私のような主婦をずっとやってきたアラフィフ以上の方々に、そういうのいいね、応援したい、真似したい、などと思ってもらえたら嬉しいです。


峰子さんの手記を拝読し、改めて人の人生とは人それぞれであるという事実を心に刻んでおります。

そして、ご自身では平凡だと思っていても、他人からみれば相当な出来事を経験しているという方も多いのではないでしょうか。

そんな思いを抱かせてくれた峰子さんに心から感謝するとともに、52歳にしてビジネススクールで学んでいるというその姿勢に敬意を表して本日の美人さん紹介とさせていただきます。

50s.online編集部が考える“美人さん”とは『周りの人を元気にする大人の女性』。この新しい定義も広めたいと考えております。

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